日韓併合により、朝鮮半島はどうなったか
■朝鮮半島の人口が2倍に増えた。
■24歳だった平均寿命が30年以上伸びて、54歳になった。←医療の充実
■人口の30%を占めてた奴隷が解放された。
■幼児売春や幼児売買が禁止された。
■家父長制を制限
→家畜扱いだった朝鮮女性に名前がつけられるようになった。
■8つあった言語が統合されて標準朝鮮語がつくられた。
←日本が植民地支配した場所は、その土地の一番使い手の多い言語を「国語」として、根付かせます。
台湾は、100以上の言語があり、不可能と判断。日本語を教育して同化政策を取った。
今でも、日本語でしか言葉が通じない民族がいると聞きました(2008年)
■朝鮮語教育のための教科書・教材が大量に作成された。
■5200校以上の小学校がつくられた。
■師範学校や高等学校が合わせて1000以上つくられた。
■239万人が就学して識字率が4%から61%に上がった。
■大学が造られた。
■病院が造られてカルト呪術医療が禁止された。
←それまで病人の足の裏に先祖の名前を書くと、病気は治ると信じられてました。
■上下水道が整備された。
■日本人はずっと徴兵されていたが、朝鮮人は終戦間近の一年しか徴兵されず第一線以外の、勤労動員だけで済んでいた。
※特攻隊朝鮮系日本人は志願
もちろん、優秀な人材は幹部になれた。
■志願兵の朝鮮人が戦死したら日本人と同じく英霊として祀られた。
■3800キロ鉄道が引かれた。
■港が造られた。
■電気が引かれた。
■会社が作られるようになって物々交換から貨幣経済に転換した。
■二階建て以上の家屋が造られるようになった。
■入浴するよう指導された。
■禿げ山に6億本の樹木が植林された。
■ため池がつくられた(今あるため池の半分もいまだに日本製)
■川や橋が整備された。
■耕作地が2倍になった。
■近代的な農業を教えられ、1反辺りの収穫量が3倍になった。
これら、全てを、日本はやってのけました。
どんなに大変な作業だったか‥本国が赤字になるくらいの散財です。
こんなにも良くしたのに、日本は武力制圧し、奴隷にしたと?
#56
朝鮮半島の古代史は以下の形がほぼ正しい。(日本と中国の両文献での構築で、双方に異議は無い)
中国の東北部にあった韓が秦に滅ぼされ、
重税をかけられた遺民が流民化して朝鮮半島南部に到達。
馬韓辰韓弁韓の三韓を建てる。
馬韓は高句麗支族の扶余族に支配されて百済となり、
辰韓は出雲系倭人に支配されて新羅となり、
弁韓は出雲系倭人を追って進出してきた大和系倭人が、
割拠する任那になる
初期の仏教寺院の建設には三韓(百済、新羅、高句麗)からの技術的財政的な援助があったことは確か。
当時の三韓も中国から最新の技術を簡単に取り入れられたわけではないのに、
それは何故なのか、
見返りは、日本の軍事援助。
特に百済は日本に王族の人質を送り、後に王になっているのが何人もいるので、
半属国といってもいいくらいだし、新羅も高句麗も貢ぎ物を送っている。
古代においては三韓が日本にたいして、
文化を伝えたというのは否定できないが、それはあくまで一時的なもので、
遣隋使、遣唐使の時代になると、本場から学ぶことができたので、その後の文化移入はほとんどない。
そしてまた古代日本人も今の日本人と同じで自分に合うように外来のものを消化していき、日本化していった。
百済が滅亡した後も、
百済を再興するために戦っていた百済王族は他でも無い百済の王子によって死刑にされ、首は塩漬けにされた。
息子は後に日本に亡命、天智天皇から位を授かり、滋賀の山里を開墾しながら余生を過ごした。
現在も滋賀には鬼室福信と、その子息を祀る神社が現存している。
万葉集で有名な百済系の山上憶良も生活は貧しかった。
万世一系の日本人には想像もつかないが、祖国百済の滅亡後、日本で生涯を終えた百済人たちの心情は察して余りある。
寺院を建設したり仏像を鋳造したりするために、金やその他の物が送られてきている。
三韓が互いに牽制しあっていたことは周知のことだが、個別の戦い、小競り合いの他、中国を統一した隋の出現が大きく作用して、
ほとんど敵対的ともいえる高句麗もその時期、日本にやたらと接近してきている。
面白いことに、隋もまた日本に接近してきている。
もちろん、対高句麗戦への牽制を期待してのことで、
だからこそ、
日の出ずるところの天子、日の没するところの天子へ云々の無礼な蛮族の文書など朕に見せるな、と煬帝にいわしめた、
聖徳太子の遣隋使の国書にもかかわらず、小野妹子の帰国と一緒に使者を派遣してきている。
なお帰路の途中で百済によって隋の返書が奪われるという事件が起きている。
百済にとって都合の悪いことが書かれていたことは容易に想像できる。
のちに百済は倭に援軍をたのんだが、隋、新羅連合軍によって倭百済連合軍は白村江で敗退。
百済は新羅に滅ぼされる。
なお、百済は上層部支配層は高句麗と同じ扶余系で、被支配層とは人種言語が違うというのが最近に定説とのこと。
だから、百済が滅んだ後日本にかなり亡命者がやってきたが、ほとんどが支配層だったため、現在の朝鮮人とは別種だ。
#58
上記のを短く纏めると、下記。
朝鮮半島は、日本の固有な領土とは言いがたいですが、その一部が何度か日本(「倭」も含む。)の支配化にあったことは間違いない。
1 3世紀、朝鮮半島南岸に狗邪韓國という日本の領地があった。(魏志倭人伝)
2 4世紀末から5世紀初頭、何度か百済や新羅を征服し、高句麗と戦争した。(広開土王碑)
3 4世紀末から5世紀初頭、腆支王(てんしおう。日本書紀では直支王)は、王子のときに日本の人質であったが、
応神天皇の命令で百済へ返されて百済王になった。(日本書紀応神十六年)
4 5世紀前半までに、倭の大王は海を渡って95の国を征服した。(宋書の倭王武の上表文)
5 4世紀末から5世紀前半、武寧王(ぶねいおう)は、日本で生まれ、王子のときに日本の人質であったが、
雄略天皇の命令で百済へ返されて百済王になった。(日本書紀雄略五年)
なお、武寧王は、死して日本産の高野槙の棺に葬られた。(武寧王陵発掘)
その木は今の天皇家の最後の皇子のみしるしとなっている。
6 6世紀前半まで、加羅の地域を支配し、任那をおいた。(日本書紀、概ね継体~欽明にかけて)
7 7世紀半ば、扶豊璋(よ・ほうしょう)は、王子のときに日本の人質であったが、
中大兄皇子から織冠を授けられ、つまり日本の皇子の臣下となった上で、王になるべく百済に送り込まれた。(斉明七年)
つまり、日韓双方の記録を見ても、百済から日本へは王族が人質として行っているが、
その逆はないので、完全に対等な関係とは言えない。
日本の影響力を最小限に見積もっても、今の日米関係(古代日本が米国、百済が今の日本)程度で、実態は、人質などから完全な属国。
#59
コーリアンらは「人類史上類例を見ない残虐な植民地政策」と主張しています。
コーリアンがよく口にする、日本は無理やり非合法的に朝鮮を植民地化した、名前を強制的に奪われた(創氏改名)、ハングルを奪われた、強制連行された、などの主張も、大げさに誇張されたデッチあげです。搾取、搾取と言いますが、併合前の韓国がどれほど貧しかったのかご存知ないのでしょうか?
清の植民地だったのを日本に解放してもらった朝鮮は、文化も経済もあったもんじゃない、搾取出来る程の資源も何もない世界の最貧国だったのです(下関条約 第一条参照)
こういう属国だったのです。
中韓の伝統の礼式。以下を派遣された役人相手に朝鮮の王が行う。
1. 「跪(ホイ)」
∧∧
/ 中\
( `ハ´)
( ~__))__~) ∧ ∧ ,.,、,、ノ ))
| | | <`Д´ >(⌒,)
(__)_) と入__とノ`、」
2. 「一叩頭(イーコートゥ)再叩頭(ツァイコートゥ)三叩頭(サンコートゥ)」
∧∧
/ 中\
( `ハ´) ∧ ∧
( ~__))__~) <`Д´ >,.,、,、ノ ))
| | | (( l|lll|lll| (⌒,)
(__)_) と( とノ`、」
∨ ∨ Σ ガンガンガン
3. 「起!(チー)」
∧∧
/ 中\ ∧_∧
( `ハ´) <`Д´ >
( ~__))__~) ( )
| | | | | |
(__)_) <__<__>
#68
1894年の7月~1895年4月に渡って行われた日清戦争で勝利した日本は、日清講和条約により、清は日本に遼東半島・台湾などを割譲し、日清通商航海条約を締結したほか、李氏朝鮮は清から独立することになります。
その際、李氏朝鮮は国号を「大韓帝国」とし、君主の号を皇帝に改名、実質、李氏朝鮮は朝貢国ではなく、独立国となります。
独立できたとは言え、、まだ国体が安定していなかった韓国を、日本は国の運営指導及び軍事的に保護し、日露開戦や内乱の際、補給線として使用することを日韓議定書により承認しました。
その後、日露での軍事的接触が起き、各地で戦闘状態となってしまいます。
しばらく戦闘状態が続き、朝鮮半島からロシア勢力を退けた後、第一次日韓協約を結びます。
当時の朝鮮はどちらかと言うと日本より強いロシア寄りで、「せっかく韓国は日清戦争での日本の奮戦で独立できたのに、それを放置したら清から独立できた恩を忘れロシア側についてしまうだろう」と危惧し、財務顧問・外交顧問に日本政府が推薦する人物を任命させる事で、韓国の裏切りを未然に防ごうとして第一次日韓協約を結んだわけです。
ところが、大韓皇帝・高宗は、不凍港を目指し朝鮮を狙っていたロシアに日本から守ってもらえるように密使を送ってしまいます。
そのため、日露戦争が終わった後、韓国が日本に黙って勝手な行動をしたことに対して、日露間で交わされたポーツマス条約での「韓国における日本の優越権」を行使し、これ以上勝手な行動が出来ないようにと、第二次日韓協約の締結により、日本は韓国の外交権を完全に掌握します。
やはり、ここでも朝鮮の国民性が垣間見えますね。
日本が清と一国の命運をかけて戦争して、そのおかげで朝鮮は500年にもわたる清からの支配から独立できたと言うのに、日本を裏切ってロシアに寝返ろうとするところが。
まぁ、これで日本が取った措置は合法的だし、正しいと思います。
第二次日韓協約により韓国における外交権は日本が掌握していたにもかかわらず、大韓皇帝・高宗は前回に懲りずまた密使を送ります。
しかも、その行き先はオランダのハーグで行われた、各国首脳の集う万国平和会議へ。
到着すると、その密使は各国首脳に対して韓国の外交権保護を懇願しましたが、
結局どの国にも相手にされず、失敗に終わりました。
そこで日本は、あまりに勝手が過ぎる韓国に対して、韓国における内政権も日本が掌握する事を承認する第三次日韓協約が締結されます。
その後、保護国である朝鮮は日本に対して併合してくれるように頼みました。
上記のように荒廃した国の現状では、国が維持できないと踏んだからです。
また、ロシアにいつ侵略されるか分からない状況なので、朝鮮は日韓を併合することを求めます。
しかし、そこで初代総理大臣として知られる伊藤博文は併合に反対でした。
朝鮮を日本の領土とすることよりも、韓国を韓国の国民の手で再建させ、日本と同盟関係になることを望んでいたからです。
その意見は、大韓皇太子・利王根に対して言った、「陛下はいずれ韓国帝になられるお方。それにふさわしいご修行に励んでください」と言う言葉にも見られます。
伊藤博文は「あくまで韓国は独立国である」と言う考えで、併合反対派の最長老でした。
また、明治天皇も欧州列強やロシアの侵略を退け、東洋の治安の維持が達成されることを願っており、それらの南下戦略に対抗するには、帝国が途中経路である韓国の保全に尽力し、安全にすることを図っていた。
しかしここで、とある事件が起きてしまう。
それは、安重根による伊藤博文の銃殺事件。
それにより伊藤博文は死亡、安重根は逮捕。
よく学校の教育現場では「併合を有利に運ぶためには、韓国側に原因を作ろうとして安重根に殺させたと言うが、実際は違うらしい。
安重根はなぜ伊藤を殺そうとしたかと言うと、「併合させないために殺した」という。
・・・・・・・それはおかしいのではないか?
伊藤は併合反対派のリーダーであったのにもかかわらず、
かえって不利になるようなことをするのは。
#69
理由は、安の第3回公判に隠されていました。
安は、天皇陛下が仰せられた言葉の中の
「東洋の治安・韓国の保全」を誤解していたのです。
天皇陛下の仰せられた意味は、帝国が地理的に重要な韓国の保全に尽力し、保護する事で、欧州列強の南下に耐えられる、という事です。
しかし、安は「韓国の保全=韓国の独立」、「東洋の治安=東洋の平和」と言う意味に置き換えてしまいます。
そして、韓国の独立がどんどん危ぶまれ、併合に進んでいくのは陛下の御心に反する逆臣がいるのだ、と考えるようになるのです。
では、なぜ伊藤を殺したのでしょうか?
それは、このような図式で説明できます。
「陛下は、韓国の独立を願っておられる。」
「それなのに、なぜ併合が進むのだろうか?」
「これは陛下の意思ではないはずだ。」
「ならひょっとしたら、陛下に反して併合を進めようとする逆臣がいるからだな!?」
「併合などと大規模なことをできるのは強大な権力を持った人しかいない!」
「それほどの権力を持っているといえば、
朝鮮総督も勤めた伊藤博文以外にいないはずだ!」
「ならば、陛下の御意志を果たすために伊藤を除かねばならない!!」
このように、安は勝手に思い違いし、併合反対派であった伊藤を殺してしまいます。
この事件により併合は加速し、ついに1910年8月22日、日韓併合条約が締結するのです。
結果、大韓帝国は消滅し、日本の統治下となりました。
よくここで、韓国人を中心とする人々は口をそろえて「侵略だ!!」といいます。
しかし、これは元はと言えば朝鮮側から求められた併合です。
それに、もし日本側から「植民地」にしようとしたなら、
朝鮮側に併合に関する承認を得る必要などなく、
武力攻撃をかけて制圧したほうが早いと思いませんか?
これが、「併合」と「侵略」の違いです。
その証拠に、日本は欧州列強諸国の前で承認を得て調印しました。
最近になってこの併合が違法だった、という声が上がりましたが、
当時の朝鮮の国力の低さは世界トップクラスで、
たとえ併合せず独立を貫こうとしたとしても自衛が困難だったとされ、
なおかつ韓国側から併合を申し入れてきたので、
韓国人がよく言う「強制的」ではありません。
また、日本は朝鮮半島を「武力制圧」ではなく、
「平和的な併合」をしたために、いたって合法であるということです。
42の内容と伏せて読んでもらうと、「強制だ!!」とわめく韓国人に謝罪する必要も、心を痛める必要もありません。
#76
息を吐くように嘘をつくやつはどうしたら良いと思いますか?
皆様が嘘つきの書く虚偽の歴史に惑わされないように書き込みをします。
>まず、大韓帝国は国として認定されて無いし、バーグ会議は
>ロシア皇帝から招待されたから出席した迄…
>因みに日本の国際舞台での地位を優先してロシアはバーグ会議で朝鮮使節団を拒んだのが事実。
ハーグ平和会議、ハーグ会議、万国平和会議、ハーグ万国平和会議 という。
バーグは誤り以外の何物でもない。
ハーグ万国平和会議は計2回開かれており
1899年の第一回と、1907年の第二回がある。
(第三回が企図されていたが、第一次大戦勃発により開催見送り)
まず、第一回の参加国は
ドイツ、オーストリア、ベルギー、清国、デンマーク、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランス、イギリス、ギリシャ、イタリア、日本、ルクセンブルグ、モンテネグロ、オランダ、ペルシャ、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、セルビア、シャム、スウェーデン、スイス、オスマン帝国、ブルガリアの合計23カ国
ご覧の通り、朝鮮国だろが大韓帝国だろうが招請されていない。
第二回、つまりハーグ密使事件が起きた当該会議であるが
この時も第一回同様、ロシア政府が朝鮮国(大韓帝国)に招請状を発効していない。
朝鮮国ないし大韓帝国が「ロシア皇帝から招待されたから出席した」
などという事実は第一回、第二回共になく、一切の出鱈目である。
ちなみに、ハーグ密使事件のそもそものきっかけは
宮廷の金目当てでイギリス人ベッセルとアメリカ人ホーマー・B・ハルバートという
ジャーナリストが、高宗に持ちかけた話である。
5人がハーグに派遣されたが、内2人は高宗が心変わりするのを恐れて逃げた。
残りの3人はハーグについたが誰からも相手にされなかった。
なぜなら、1904年に日本は朝鮮の外交権を収公し、各国により承認済であったため。
そこで、日本代表の都筑馨六はこの事件を伊藤博文に報告。
伊藤博文は、高宗に密使派遣の事実を確認すると高宗は否定するが
高宗の、言うなれば裏切り行為に、退位を要求した。
と、既に解釈も何も挟まない歴史的事実として出鱈目が書いてあるわけだ。
更に、事実は別にして
>まず、大韓帝国は国として認定されて無いし、バーグ会議は
>ロシア皇帝から招待されたから出席した迄…
>因みに日本の国際舞台での地位を優先してロシアはバーグ会議で朝鮮使節団を拒んだのが事実。
国として認定されていないものを、一体どういう身分で招待するんだ?
で、「ロシア皇帝から招待された」のにロシアがハーグ会議で「朝鮮使節団を拒む」って
歴史的事実はいざ知らず、論理的におかしい。
ちなみに、大韓帝国は国として認定されている。
なぜなら、これはただ単に、日清講和条約(下関条約/馬関条約)で
第一條
清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ
朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
という国際的な条約に基づき
清国の冊封体制から離脱することになったため
王号を改め、皇帝号を名乗った事で起きた国号改称で
王朝が入れ替わったわけでも、国家体制が変わったわけでもないから
当然、朝鮮国を国家として承認していれば、大韓帝国も国家として認められるわけである。
仮に、朝鮮国は国家として認めるが大韓帝国は国家として認めない、という
不可思議な国家や国際法主体があったとしても
この2つは一体不可分なため、どちらかが認められていれば、全く問題が無い。
更には、列強各国は大韓帝国を日本の保護国として認めている
という事実からも、間接的に、各国が大韓帝国を認めていることが分かる。
で、歴史とは、様々な事実の連続性からなる出来事なのだが
出鱈目の積み重ねから何が生まれるのかね?
そろそろ、誤りは認めて、訂正する、という行為を覚えた方が良いと思うが。
■朝鮮半島の人口が2倍に増えた。
■24歳だった平均寿命が30年以上伸びて、54歳になった。←医療の充実
■人口の30%を占めてた奴隷が解放された。
■幼児売春や幼児売買が禁止された。
■家父長制を制限
→家畜扱いだった朝鮮女性に名前がつけられるようになった。
■8つあった言語が統合されて標準朝鮮語がつくられた。
←日本が植民地支配した場所は、その土地の一番使い手の多い言語を「国語」として、根付かせます。
台湾は、100以上の言語があり、不可能と判断。日本語を教育して同化政策を取った。
今でも、日本語でしか言葉が通じない民族がいると聞きました(2008年)
■朝鮮語教育のための教科書・教材が大量に作成された。
■5200校以上の小学校がつくられた。
■師範学校や高等学校が合わせて1000以上つくられた。
■239万人が就学して識字率が4%から61%に上がった。
■大学が造られた。
■病院が造られてカルト呪術医療が禁止された。
←それまで病人の足の裏に先祖の名前を書くと、病気は治ると信じられてました。
■上下水道が整備された。
■日本人はずっと徴兵されていたが、朝鮮人は終戦間近の一年しか徴兵されず第一線以外の、勤労動員だけで済んでいた。
※特攻隊朝鮮系日本人は志願
もちろん、優秀な人材は幹部になれた。
■志願兵の朝鮮人が戦死したら日本人と同じく英霊として祀られた。
■3800キロ鉄道が引かれた。
■港が造られた。
■電気が引かれた。
■会社が作られるようになって物々交換から貨幣経済に転換した。
■二階建て以上の家屋が造られるようになった。
■入浴するよう指導された。
■禿げ山に6億本の樹木が植林された。
■ため池がつくられた(今あるため池の半分もいまだに日本製)
■川や橋が整備された。
■耕作地が2倍になった。
■近代的な農業を教えられ、1反辺りの収穫量が3倍になった。
これら、全てを、日本はやってのけました。
どんなに大変な作業だったか‥本国が赤字になるくらいの散財です。
こんなにも良くしたのに、日本は武力制圧し、奴隷にしたと?
#56
朝鮮半島の古代史は以下の形がほぼ正しい。(日本と中国の両文献での構築で、双方に異議は無い)
中国の東北部にあった韓が秦に滅ぼされ、
重税をかけられた遺民が流民化して朝鮮半島南部に到達。
馬韓辰韓弁韓の三韓を建てる。
馬韓は高句麗支族の扶余族に支配されて百済となり、
辰韓は出雲系倭人に支配されて新羅となり、
弁韓は出雲系倭人を追って進出してきた大和系倭人が、
割拠する任那になる
初期の仏教寺院の建設には三韓(百済、新羅、高句麗)からの技術的財政的な援助があったことは確か。
当時の三韓も中国から最新の技術を簡単に取り入れられたわけではないのに、
それは何故なのか、
見返りは、日本の軍事援助。
特に百済は日本に王族の人質を送り、後に王になっているのが何人もいるので、
半属国といってもいいくらいだし、新羅も高句麗も貢ぎ物を送っている。
古代においては三韓が日本にたいして、
文化を伝えたというのは否定できないが、それはあくまで一時的なもので、
遣隋使、遣唐使の時代になると、本場から学ぶことができたので、その後の文化移入はほとんどない。
そしてまた古代日本人も今の日本人と同じで自分に合うように外来のものを消化していき、日本化していった。
百済が滅亡した後も、
百済を再興するために戦っていた百済王族は他でも無い百済の王子によって死刑にされ、首は塩漬けにされた。
息子は後に日本に亡命、天智天皇から位を授かり、滋賀の山里を開墾しながら余生を過ごした。
現在も滋賀には鬼室福信と、その子息を祀る神社が現存している。
万葉集で有名な百済系の山上憶良も生活は貧しかった。
万世一系の日本人には想像もつかないが、祖国百済の滅亡後、日本で生涯を終えた百済人たちの心情は察して余りある。
寺院を建設したり仏像を鋳造したりするために、金やその他の物が送られてきている。
三韓が互いに牽制しあっていたことは周知のことだが、個別の戦い、小競り合いの他、中国を統一した隋の出現が大きく作用して、
ほとんど敵対的ともいえる高句麗もその時期、日本にやたらと接近してきている。
面白いことに、隋もまた日本に接近してきている。
もちろん、対高句麗戦への牽制を期待してのことで、
だからこそ、
日の出ずるところの天子、日の没するところの天子へ云々の無礼な蛮族の文書など朕に見せるな、と煬帝にいわしめた、
聖徳太子の遣隋使の国書にもかかわらず、小野妹子の帰国と一緒に使者を派遣してきている。
なお帰路の途中で百済によって隋の返書が奪われるという事件が起きている。
百済にとって都合の悪いことが書かれていたことは容易に想像できる。
のちに百済は倭に援軍をたのんだが、隋、新羅連合軍によって倭百済連合軍は白村江で敗退。
百済は新羅に滅ぼされる。
なお、百済は上層部支配層は高句麗と同じ扶余系で、被支配層とは人種言語が違うというのが最近に定説とのこと。
だから、百済が滅んだ後日本にかなり亡命者がやってきたが、ほとんどが支配層だったため、現在の朝鮮人とは別種だ。
#58
上記のを短く纏めると、下記。
朝鮮半島は、日本の固有な領土とは言いがたいですが、その一部が何度か日本(「倭」も含む。)の支配化にあったことは間違いない。
1 3世紀、朝鮮半島南岸に狗邪韓國という日本の領地があった。(魏志倭人伝)
2 4世紀末から5世紀初頭、何度か百済や新羅を征服し、高句麗と戦争した。(広開土王碑)
3 4世紀末から5世紀初頭、腆支王(てんしおう。日本書紀では直支王)は、王子のときに日本の人質であったが、
応神天皇の命令で百済へ返されて百済王になった。(日本書紀応神十六年)
4 5世紀前半までに、倭の大王は海を渡って95の国を征服した。(宋書の倭王武の上表文)
5 4世紀末から5世紀前半、武寧王(ぶねいおう)は、日本で生まれ、王子のときに日本の人質であったが、
雄略天皇の命令で百済へ返されて百済王になった。(日本書紀雄略五年)
なお、武寧王は、死して日本産の高野槙の棺に葬られた。(武寧王陵発掘)
その木は今の天皇家の最後の皇子のみしるしとなっている。
6 6世紀前半まで、加羅の地域を支配し、任那をおいた。(日本書紀、概ね継体~欽明にかけて)
7 7世紀半ば、扶豊璋(よ・ほうしょう)は、王子のときに日本の人質であったが、
中大兄皇子から織冠を授けられ、つまり日本の皇子の臣下となった上で、王になるべく百済に送り込まれた。(斉明七年)
つまり、日韓双方の記録を見ても、百済から日本へは王族が人質として行っているが、
その逆はないので、完全に対等な関係とは言えない。
日本の影響力を最小限に見積もっても、今の日米関係(古代日本が米国、百済が今の日本)程度で、実態は、人質などから完全な属国。
#59
コーリアンらは「人類史上類例を見ない残虐な植民地政策」と主張しています。
コーリアンがよく口にする、日本は無理やり非合法的に朝鮮を植民地化した、名前を強制的に奪われた(創氏改名)、ハングルを奪われた、強制連行された、などの主張も、大げさに誇張されたデッチあげです。搾取、搾取と言いますが、併合前の韓国がどれほど貧しかったのかご存知ないのでしょうか?
清の植民地だったのを日本に解放してもらった朝鮮は、文化も経済もあったもんじゃない、搾取出来る程の資源も何もない世界の最貧国だったのです(下関条約 第一条参照)
こういう属国だったのです。
中韓の伝統の礼式。以下を派遣された役人相手に朝鮮の王が行う。
1. 「跪(ホイ)」
∧∧
/ 中\
( `ハ´)
( ~__))__~) ∧ ∧ ,.,、,、ノ ))
| | | <`Д´ >(⌒,)
(__)_) と入__とノ`、」
2. 「一叩頭(イーコートゥ)再叩頭(ツァイコートゥ)三叩頭(サンコートゥ)」
∧∧
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( `ハ´) ∧ ∧
( ~__))__~) <`Д´ >,.,、,、ノ ))
| | | (( l|lll|lll| (⌒,)
(__)_) と( とノ`、」
∨ ∨ Σ ガンガンガン
3. 「起!(チー)」
∧∧
/ 中\ ∧_∧
( `ハ´) <`Д´ >
( ~__))__~) ( )
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(__)_) <__<__>
#68
1894年の7月~1895年4月に渡って行われた日清戦争で勝利した日本は、日清講和条約により、清は日本に遼東半島・台湾などを割譲し、日清通商航海条約を締結したほか、李氏朝鮮は清から独立することになります。
その際、李氏朝鮮は国号を「大韓帝国」とし、君主の号を皇帝に改名、実質、李氏朝鮮は朝貢国ではなく、独立国となります。
独立できたとは言え、、まだ国体が安定していなかった韓国を、日本は国の運営指導及び軍事的に保護し、日露開戦や内乱の際、補給線として使用することを日韓議定書により承認しました。
その後、日露での軍事的接触が起き、各地で戦闘状態となってしまいます。
しばらく戦闘状態が続き、朝鮮半島からロシア勢力を退けた後、第一次日韓協約を結びます。
当時の朝鮮はどちらかと言うと日本より強いロシア寄りで、「せっかく韓国は日清戦争での日本の奮戦で独立できたのに、それを放置したら清から独立できた恩を忘れロシア側についてしまうだろう」と危惧し、財務顧問・外交顧問に日本政府が推薦する人物を任命させる事で、韓国の裏切りを未然に防ごうとして第一次日韓協約を結んだわけです。
ところが、大韓皇帝・高宗は、不凍港を目指し朝鮮を狙っていたロシアに日本から守ってもらえるように密使を送ってしまいます。
そのため、日露戦争が終わった後、韓国が日本に黙って勝手な行動をしたことに対して、日露間で交わされたポーツマス条約での「韓国における日本の優越権」を行使し、これ以上勝手な行動が出来ないようにと、第二次日韓協約の締結により、日本は韓国の外交権を完全に掌握します。
やはり、ここでも朝鮮の国民性が垣間見えますね。
日本が清と一国の命運をかけて戦争して、そのおかげで朝鮮は500年にもわたる清からの支配から独立できたと言うのに、日本を裏切ってロシアに寝返ろうとするところが。
まぁ、これで日本が取った措置は合法的だし、正しいと思います。
第二次日韓協約により韓国における外交権は日本が掌握していたにもかかわらず、大韓皇帝・高宗は前回に懲りずまた密使を送ります。
しかも、その行き先はオランダのハーグで行われた、各国首脳の集う万国平和会議へ。
到着すると、その密使は各国首脳に対して韓国の外交権保護を懇願しましたが、
結局どの国にも相手にされず、失敗に終わりました。
そこで日本は、あまりに勝手が過ぎる韓国に対して、韓国における内政権も日本が掌握する事を承認する第三次日韓協約が締結されます。
その後、保護国である朝鮮は日本に対して併合してくれるように頼みました。
上記のように荒廃した国の現状では、国が維持できないと踏んだからです。
また、ロシアにいつ侵略されるか分からない状況なので、朝鮮は日韓を併合することを求めます。
しかし、そこで初代総理大臣として知られる伊藤博文は併合に反対でした。
朝鮮を日本の領土とすることよりも、韓国を韓国の国民の手で再建させ、日本と同盟関係になることを望んでいたからです。
その意見は、大韓皇太子・利王根に対して言った、「陛下はいずれ韓国帝になられるお方。それにふさわしいご修行に励んでください」と言う言葉にも見られます。
伊藤博文は「あくまで韓国は独立国である」と言う考えで、併合反対派の最長老でした。
また、明治天皇も欧州列強やロシアの侵略を退け、東洋の治安の維持が達成されることを願っており、それらの南下戦略に対抗するには、帝国が途中経路である韓国の保全に尽力し、安全にすることを図っていた。
しかしここで、とある事件が起きてしまう。
それは、安重根による伊藤博文の銃殺事件。
それにより伊藤博文は死亡、安重根は逮捕。
よく学校の教育現場では「併合を有利に運ぶためには、韓国側に原因を作ろうとして安重根に殺させたと言うが、実際は違うらしい。
安重根はなぜ伊藤を殺そうとしたかと言うと、「併合させないために殺した」という。
・・・・・・・それはおかしいのではないか?
伊藤は併合反対派のリーダーであったのにもかかわらず、
かえって不利になるようなことをするのは。
#69
理由は、安の第3回公判に隠されていました。
安は、天皇陛下が仰せられた言葉の中の
「東洋の治安・韓国の保全」を誤解していたのです。
天皇陛下の仰せられた意味は、帝国が地理的に重要な韓国の保全に尽力し、保護する事で、欧州列強の南下に耐えられる、という事です。
しかし、安は「韓国の保全=韓国の独立」、「東洋の治安=東洋の平和」と言う意味に置き換えてしまいます。
そして、韓国の独立がどんどん危ぶまれ、併合に進んでいくのは陛下の御心に反する逆臣がいるのだ、と考えるようになるのです。
では、なぜ伊藤を殺したのでしょうか?
それは、このような図式で説明できます。
「陛下は、韓国の独立を願っておられる。」
「それなのに、なぜ併合が進むのだろうか?」
「これは陛下の意思ではないはずだ。」
「ならひょっとしたら、陛下に反して併合を進めようとする逆臣がいるからだな!?」
「併合などと大規模なことをできるのは強大な権力を持った人しかいない!」
「それほどの権力を持っているといえば、
朝鮮総督も勤めた伊藤博文以外にいないはずだ!」
「ならば、陛下の御意志を果たすために伊藤を除かねばならない!!」
このように、安は勝手に思い違いし、併合反対派であった伊藤を殺してしまいます。
この事件により併合は加速し、ついに1910年8月22日、日韓併合条約が締結するのです。
結果、大韓帝国は消滅し、日本の統治下となりました。
よくここで、韓国人を中心とする人々は口をそろえて「侵略だ!!」といいます。
しかし、これは元はと言えば朝鮮側から求められた併合です。
それに、もし日本側から「植民地」にしようとしたなら、
朝鮮側に併合に関する承認を得る必要などなく、
武力攻撃をかけて制圧したほうが早いと思いませんか?
これが、「併合」と「侵略」の違いです。
その証拠に、日本は欧州列強諸国の前で承認を得て調印しました。
最近になってこの併合が違法だった、という声が上がりましたが、
当時の朝鮮の国力の低さは世界トップクラスで、
たとえ併合せず独立を貫こうとしたとしても自衛が困難だったとされ、
なおかつ韓国側から併合を申し入れてきたので、
韓国人がよく言う「強制的」ではありません。
また、日本は朝鮮半島を「武力制圧」ではなく、
「平和的な併合」をしたために、いたって合法であるということです。
42の内容と伏せて読んでもらうと、「強制だ!!」とわめく韓国人に謝罪する必要も、心を痛める必要もありません。
#76
息を吐くように嘘をつくやつはどうしたら良いと思いますか?
皆様が嘘つきの書く虚偽の歴史に惑わされないように書き込みをします。
>まず、大韓帝国は国として認定されて無いし、バーグ会議は
>ロシア皇帝から招待されたから出席した迄…
>因みに日本の国際舞台での地位を優先してロシアはバーグ会議で朝鮮使節団を拒んだのが事実。
ハーグ平和会議、ハーグ会議、万国平和会議、ハーグ万国平和会議 という。
バーグは誤り以外の何物でもない。
ハーグ万国平和会議は計2回開かれており
1899年の第一回と、1907年の第二回がある。
(第三回が企図されていたが、第一次大戦勃発により開催見送り)
まず、第一回の参加国は
ドイツ、オーストリア、ベルギー、清国、デンマーク、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランス、イギリス、ギリシャ、イタリア、日本、ルクセンブルグ、モンテネグロ、オランダ、ペルシャ、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、セルビア、シャム、スウェーデン、スイス、オスマン帝国、ブルガリアの合計23カ国
ご覧の通り、朝鮮国だろが大韓帝国だろうが招請されていない。
第二回、つまりハーグ密使事件が起きた当該会議であるが
この時も第一回同様、ロシア政府が朝鮮国(大韓帝国)に招請状を発効していない。
朝鮮国ないし大韓帝国が「ロシア皇帝から招待されたから出席した」
などという事実は第一回、第二回共になく、一切の出鱈目である。
ちなみに、ハーグ密使事件のそもそものきっかけは
宮廷の金目当てでイギリス人ベッセルとアメリカ人ホーマー・B・ハルバートという
ジャーナリストが、高宗に持ちかけた話である。
5人がハーグに派遣されたが、内2人は高宗が心変わりするのを恐れて逃げた。
残りの3人はハーグについたが誰からも相手にされなかった。
なぜなら、1904年に日本は朝鮮の外交権を収公し、各国により承認済であったため。
そこで、日本代表の都筑馨六はこの事件を伊藤博文に報告。
伊藤博文は、高宗に密使派遣の事実を確認すると高宗は否定するが
高宗の、言うなれば裏切り行為に、退位を要求した。
と、既に解釈も何も挟まない歴史的事実として出鱈目が書いてあるわけだ。
更に、事実は別にして
>まず、大韓帝国は国として認定されて無いし、バーグ会議は
>ロシア皇帝から招待されたから出席した迄…
>因みに日本の国際舞台での地位を優先してロシアはバーグ会議で朝鮮使節団を拒んだのが事実。
国として認定されていないものを、一体どういう身分で招待するんだ?
で、「ロシア皇帝から招待された」のにロシアがハーグ会議で「朝鮮使節団を拒む」って
歴史的事実はいざ知らず、論理的におかしい。
ちなみに、大韓帝国は国として認定されている。
なぜなら、これはただ単に、日清講和条約(下関条約/馬関条約)で
第一條
清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ
朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
という国際的な条約に基づき
清国の冊封体制から離脱することになったため
王号を改め、皇帝号を名乗った事で起きた国号改称で
王朝が入れ替わったわけでも、国家体制が変わったわけでもないから
当然、朝鮮国を国家として承認していれば、大韓帝国も国家として認められるわけである。
仮に、朝鮮国は国家として認めるが大韓帝国は国家として認めない、という
不可思議な国家や国際法主体があったとしても
この2つは一体不可分なため、どちらかが認められていれば、全く問題が無い。
更には、列強各国は大韓帝国を日本の保護国として認めている
という事実からも、間接的に、各国が大韓帝国を認めていることが分かる。
で、歴史とは、様々な事実の連続性からなる出来事なのだが
出鱈目の積み重ねから何が生まれるのかね?
そろそろ、誤りは認めて、訂正する、という行為を覚えた方が良いと思うが。
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by aokihonoka
| 2010-08-21 19:38